渡辺私塾文庫

リーフ

「蒐集雑感」
              渡辺私塾文庫  文庫長 渡辺淑寛


    
蒐集雑感はしばらくお休みにします。久保貞次郎研究所月報は毎月更新していますので、そちらをご覧なって頂ければ幸いです。

2011年10月7日 
何と10ヶ月ぶりの収集雑感です。8月末日に渡辺淑寛著作集第3巻が発行されました。まだ受け取っていない卒業生は、プレゼント致しますので拙宅まで来訪して頂ければ幸いです。
 久保貞次郎研究所月報は毎月更新していますので、そちらを見て頂ければ、当塾の動向が解るかと思います。
 文庫収集品は、恩地関連、久保貞次郎関連、洋書関連を中心に少しずつ充実しています。興味のある方は、ご連絡ください。
 そうそう、塾長は、肉体はがたがたですが、精神は、生きる意欲に充ち満ちて、いたって壮健です。今回は短い雑感になってしまいました。ご了承ください。

2011年1月1日  
4ヶ月ぶりの収集雑感です。昨年末12月27日、「続・渡辺淑寛著作集」を真岡新聞社から刊行し、高3生の卒業式で卒業生に贈呈することが出来ました。真岡新聞社からは2年ぶり2冊目の出版になります。今回の卒業式では、9年前文芸社から出版した「潮に聞け」と、2年前の「著作集」と、今回の「続・著作集」の3冊を渡すことが出来て、嬉しい限りです。ここ1,2年のうちに、「続々・著作集」の出版を予定しています。僅かな人数の方々でしょうが、期待して頂ければ幸いです。
 なお、当塾卒業生に対しては、3冊の拙本でまだ受け取っていない本であれば、贈呈致しますので拙宅まで来て頂ければ喜んで手渡し致します。御一報ください。2011年元旦、これにて「雑感」に換えさせて頂きます


2010年9月30日 
5ヶ月ぶりの蒐集雑感です。今回も真岡新聞に掲載しました2篇の拙文でお茶を濁したいと思います。お時間が有りましたら、久保貞次郎研究所月報もお読みになって頂ければ幸いです。そうそう、黒の塾長は超多忙の中、すこぶる元気です。


渡辺私塾出身医師と医学部生、医学部志望高3生が懇談会を開催
  渡辺私塾高等部で高3英語学力コンテストを実施
(真岡新聞平成22年8月27日号掲載)

 
来春で開塾37年目を迎える渡辺私塾。8月15日に、芳賀日赤病院に勤務する当塾卒業生の医師3名と、現在医学部に在籍している医学生5名、来春医学部受験予定の高3塾生6名計14名で懇談会が開かれた。昼食後、日赤病院見学も行われ、医師としての心構えや、地域医療に根ざした芳賀日赤の特徴・実績が医師側から熱く語られ、縁があるなら、芳賀日赤病院勤務も将来の選択肢の一つにしてほしいという要望が伝えられた。
 また8月8日、渡辺私塾高等部で高3英語学力コンテストが実施された。結果は以下の通り。参加者72名で、問題は東京大学の過去問。解答時間は70分の所45分で100点満点。第1位吉住航80点、第2位佐藤裕典73点、第3位飯塚成紀64点、第4位匿名希望57点、第5位佐藤晴紀、上野達矢、北條新之介52点、第8位小池暢人50点。(入賞基準50点以上)
 渡辺淑寛台町本校塾長の話〜医師と医学生と医学志望生の懇談会は、医師側の強い希望で実現しました。正確な資料のある平成年度22年間で、国立大(医)に25名、自治医科大(医)に6名、防衛医科大に4名、私立医科大(医)に23名計58名が現役合格していますが、浪人生と昭和年度14年間の国立大私立大医学部進学者現役生浪人生を合わせますと、当塾から、少なくても80名近くが(浪人生と昭和年間については正確に把握していませんが実数は90名を優に越えると思われます。)医学の道に進んでいます。この事実を認識している教え子の日赤勤務医の一人が、不意に拙宅を訪れ、懇談会開催を要望されました。
 お盆中でもあり、急な話でしたので、医学部生は1,2名かと思っていましたところ、5名もはせ参じて頂き、嬉しい限りです。また当日は京都大模試が有り、参加できない高3生もいましたが、6名の参加は予想以上でした。
 この懇談会をきっかけに、当塾が起点となって、渡辺私塾卒業生医師団ネットワークなるものが生まれ、互いに連絡を取り合い、切磋琢磨し、足りない物を補い合い、求道者に似て、万能に非ずして他者の生死を司らねばならぬ崇高な医師道を勇気に満ちて邁進して頂ければと願っています。そして松下村塾、鳴滝塾、廉塾、韮山塾、適塾の卒塾生が、ある種畏敬の念を持って遇されたように、この上なく厳しいと評判の渡辺私塾台町本校高等部の卒業生も、卒塾生というだけで高く評価される時代が来ることを夢見ています。
 高3英語学力コンテストの問題は、東大の古い問題で、まだ一次試験と二次試験が科せられていた頃の、二次試験全問題を70分の所45分で解いてもらいました。極めて良質な問題揃いで、読解力、英作文力、表現力が試される文句のつけようのない傑作問題です。2002年度から毎夏休み9年間行っている学力テストで、2002年度から順に、50点以上が、10名、8名、12名、15名、10名、12名、5名、10名で、今年度は8名でしたが、初めて8割を取る塾生が現れました。
 2002年からの最高点と合格大学は、順に以下の通り。69点(京都大医)、72点(東工大5類)、69点(東大文V)、73点(東大文U)、73点(東京外大)、77点(東大文U)、65点(東北大法)、69点(岩手大獣医)。
 全ての受験生諸君、21世紀初頭、まだまだ前夜だ。私達は、愛する家族・信頼する友・世界中のまだ見ぬ同朋の、笑み、優しさ、悲しみ、苦渋、喜びを糧に、この受験時代を走り抜けよう、次の時代が見えるまで。この受験時代を這ってでもくぐり抜けよう、次の時代を作るため。存在とは進化だから。



渡辺私塾台町本校高等部、高1英語、高2英語学力コンテストを実施
             高3理系ハイレベル特別講義を実施
(真岡新聞平成22年8月13日号掲載)

 来春で開塾37年目を迎える渡辺私塾、7月16日に第1回高2英語学力コンテスト、7月29日に第1回高1英語学力コンテストを実施した。
 結果は以下の通り。高2英語は、参加者80名で問題は明治大の過去問。解答時間は60分の所を40分で100点満点。第1位中村毅67点、第2位小堀篤也65点、第3位谷藤あきほ64点、第4位海老原勇輔59点、第5位大山威士、大塚百華、二井谷友希54点、第8位柳沢深月51点。
 高1英語は、参加者87名で問題は高岡法科大の過去問。解答時間は70分の所35分で200点満点。第1位野澤優冶155点、第2位小坂翔147点、第3位桜井貴央139点、第4位浅香佑実137点、第5位飯田春奈130点、、第6位小林遙香128点、第7位日下田哲也127点。(入賞者は高1、高2生共、男子は真高生、女子は真女高生)
 渡辺淑寛台町本校塾長の話〜高1生、高2生にとっては、レベルも高く、解答時間も極めて厳しい設定ですが、当塾生の英語力は相当高く、学力コンテストとしては適切であったと思われます。当塾卒業生は、正確な記録が残っている平成年間(22年間)だけで、東大、京大を初めとする旧帝大、国立医歯大、お茶大、東工大、一橋大、筑波大、千葉大、横浜国大、東京外語大に、433名が現役合格を果たしていますが、433名全員一定程度の英語力を持っていました。言い換えれば前述のような難関大には、英語が強くなければ合格出来ないということかも知れません。そして真の英語力をつける最短の方法は、辞書をひき、単語帳をつけながら程度の高い英文を読み、筆者は何を言いたいのか自分の頭で考える事です。その過程で日本語も含めた総合的言語能力が高まります。
 私は数年前から、当事者の許可を得て、成績優秀者を本誌で公表していますが、もちろんある意図を持っての事です。日本では、スポーツで活躍した若者の名は多くのメディアで公表されますが、勉学で活躍する者の名は、個人情報の名のもと、ほとんど公表されません。「甲子園」が象徴する「運動礼讃」と、「ガリ勉」という言葉が暗示する「勉学蔑視」が背景に有るのでしょう。以前にも言った事ですが、研究者や医師を目指し必死に努力している若者を、「ガリ勉」と言う言葉で蔑むことが、一体誰に出来ましょうか。部活動、ボランティア活動と同様、心血を注ぐ勉学も、等しく神聖で崇高で、人格形成の優れた手段です。「甲子園」、「文武両道」、「ゆとり教育」、「お受験」、「ガリ勉」等の言葉が、日本の教育文化の表層を、注視もされず軽薄に流れている時、学力による地域格差、地方差別が、日本の根底を厳然と支配しています。例えば、どれ程多くの芳賀の少年少女が、学力不足のため、医師の素養が充分有るにもかかわらず、医学部受験を断念してきたか、ご存じでしょうか。
 それ故、渡辺私塾はレベルが高すぎる、問題量が多すぎると、いくら非難されようが、都会に負けない本質的な授業を行い、1から10まで全て教える事を私の使命と確信しています。どの程度吸収するかは塾生達の努力の問題ですが、生徒は未習の箇所は全く出来ませんので、英語と数学に関しては、とりあえず基礎から最難度の内容まで全て教える事にしています。
 去る7月19日の祭日、高3理系の塾生に150分の数V無料特別講義を行いました。tで切る体積、区分求積法による体積、微分方程式などの内容で、東大、京大、東北大などの過去問を中心に、大学受験数学の上限に近い難問良問揃いでしたが、根本原理からの論理的かつ本質的な学習で、地方の高校生でも充分血肉となる楽しい授業でした。都会と地方の学力差は、個々人の能力差ではなく、情報量の差なのでしょう。9月初旬に、正方行列のN乗と、1次変換中心の数C特別講義を予定しています。最難度の学習になるでしょうが、多くの塾生は喜々として授業を受けることでしょう。
 全ての受験生諸君、本当に伸びるのはこれから。自分の能力を固く信じて、この受験時代を走り抜けよう、次の時代が見えるまで。存在とは進化だから、勇気に満ちて、この受験時代を走り抜けよう、次の時代を作るため。




2010年 5月7日 
久しぶりの蒐集雑感です。今回も、真岡新聞に掲載しました2点の記事にて蒐集雑感に代えさせて頂きます。高校生300名近くの英語、数学の授業の全てをこなし、「久保貞次郎研究所」を立ち上げたり、相変わらずの超多忙ですが、塾長はすこぶる元気です。

「皇室の名宝展を観て
 〜衝撃の至宝、若沖「動植彩絵30幅 〜」(真岡新聞平成21年10月23日号)

 冬の気配をそっと乗せて雨巻の山々から吹く秋風の中、10月14日、上野の森、東京国立博物館に、「皇室の名宝展」を観に行った(1期10月6日〜11月3日)。、円山応挙、横山大観、並河靖之、高村光雲等の傑作が出品されていたが、目当てはもちろん伊藤若沖の「動植彩絵」30幅である。
 原色を用いた鮮やかな色彩対比と、生命感溢れる生物描写で異端の画家と評された若沖であったが、「動植彩絵」を一度観て、「ゴッホやフェルメールに勝てるのは、若沖だけだがや」と断言する友人が名古屋大学美学美術史研究室に一人いた。
  若沖は、1757年(宝暦7年)から10年かけて30幅を完成させ、釈迦三尊像と共に、京都の相国寺に寄進したと言われており、明治22年相国寺が30幅のみを皇室に献上し、現在三の丸尚蔵館に所蔵されている。
 野放図だが鑑識眼だけは確かな友人だったので、彼の断言は、私の心の片隅に30年もひっそり息づいていたのかも知れない。渡辺私塾文庫所蔵品の中に、いつ購入したのか定かでない明治木版画本「若沖畫譜」全4冊が有り、今では希少本になっている。
 2年前の5月、相国寺承天閣美術館で「若沖展〜釈迦三尊像と動植彩絵120年ぶりの再会〜」という素敵なタイトルの美術展が開かれ、釈迦三尊像3幅と合わせて全33幅が出品されたのだが、時間が取れず臍(ほぞ)をかんだ。それで今回の「名宝展」に30幅全て出展されていると知るやいなや、疾風のごとく上野の森にはせ参じたのは言うまでもない。
 他の傑作を素通りして、「動植彩絵」の前に立ちすくだ時、その芸術性の高さは、私の想像を遥かに越えていた。画集、図録では全く伝わらない、躍動感、奥行き、透明感、生命観に衝撃を受けた。原色が原色でなくなり、絵全体に溶け込んで透明になっている。異端と呼びたければ呼べばよい。作品群を前に、無垢な幼児のように心を開けば、異端とか正統とかの枠を遥かに凌駕した究極の芸術作品であることは容易に感得出来る。
 フェルメールが「カメラ・オブスキュラ(暗箱)」や「ポアンティエ(点綴法)」などの秘密の仕掛け駆使し、当時金より高価な「ラビスラズビ」を原料とした「フェルメールブルー」を用いたように、若沖は、画絹の裏面から描く「裏彩色」という技法を使い、西洋渡来の高価な「プルシアンブルー」という絵具を用いたという。何という類似性だろう。この類似性は、二人の天才を世に送り、この地上を「楽園」、「浄土」に近づけたいという天の御技(みわざ)としか思えない。
 私はゴッホやフェルメールを越える絵師などいないと思っていたが、友人が正しかった。私が間違っていた。人間は進化する存在だが、人間が創出する芸術作品も無限の「高み」に向けて密かに進化していたのである。




「渡辺私塾文庫所蔵品「集古十種」をテレビ朝日が取材
「集古十種」取材について」(真岡新聞平成21年10月30日号)

 去る2009年9月30日、テレビ朝日映像製作本部の4名が、当文庫所蔵品「集古十種」取材のため、東京から車で来訪した。11月29日午後3時からWOWWOWで放映する「美術のゲノム」で、奈良時代の「伎楽面」のデジタル復元にどうしても必要とのこと。「集古十種」編者松平定信のお膝元、福島県立博物館学芸員からの紹介による取材であった。以前その学芸員からの問い合わせで何度か資料を送ったことがあり、当文庫の「集古十種」は初摺り本に近く、85冊全揃いは極めて稀少で、日本でも数点だけとの話である。(詳しくは当文庫HP,V「集古十種」を。ヤフー、グーグルにて「渡辺私塾文庫」の入力でアクセス可)
 40年前、名古屋の美術館で、この美しい木版刷り本を目にして以来、29年かけて、やっと11年前、鬼神、阿修羅のような執念で神田神保町で入手した作品で、バブル崩壊で持ちきれなくなったお大名の末裔が、泣く泣く廉価で手放したと言う話も聞いた。
 地方の弱小文庫ゆえ、高額作品の購入は全く不可能だが、毎週のように郵送される様々な古書目録を、コンドルの視力と狩猟犬の臭覚で見事に看破し、驚異の廉価で購入する40年であった。そう言えば、数年前韓国の草書研究家の熱意にほだされて、贈呈してしまった江戸稀少本も、3週間前、京都の若手研究者に寄贈した明治稀覯本も、千円に満たない購入価格であった。
 今思うに、当文庫、当私塾の使命の一つは、、中央の文化の香を、僅かでも北関東芳賀の地にもたらすことに違いない。今思うに、この様な些細な営みが、地球が血球から知球に変わる些細な一歩の一助に、きっとなるに違いない。
 私はまた言わねばならぬ、我々の存在は、この人類、地球、宇宙の進化のための存在だと。再度言う、存在とは進化だと。



2009年7月15日

    
半年ぶりの蒐集雑感です。今回は、真岡新聞5月29日号に掲載しました「益子ワグナー・ナンドール春期展」を観て、と、6月26日号掲載の「渡辺私塾開塾の思い出〜父の追憶と共に〜」を掲載しまして、蒐集雑感に代えさせて頂きます。


「真岡新聞6月26日号掲載」

渡辺私塾開塾の思い出 〜父の追憶と共に〜
                 
 渡辺私塾台町本校塾長 渡辺淑寛

 父渡辺寛一は、物部中、久下田中、真岡中等で教鞭を執った後、昭和54年、芳賀町立水沼小学校校長として定年退職し、平成2年他界した。現職中脳血栓で何度か倒れ、休職を繰り返しながらも、多くの教職員、ご父兄、生徒達の温かい励まし、ご支援で、定年まで勤めあげた。定年の数年前には、口、手足が不自由になり、我々家族も見かねて、早期退職を勧めたが、頑として聞かなかった。ある時、次のような話を耳にして、家族は早期退職を口にしなくなった。朝礼時、父の挨拶は、何を言っているのかほとんど解らないのだが、その必死さ、生き様、児童達を思う純真な姿に打たれ、泪する教職員、子供達が少なからずいたという話であった。目頭を押さえながらも、私達家族は、父を誇りに思った。
 父が最初に倒れたのは、私が宇都宮大卒後、名古屋大4年の春であった。8年間も大学に通うことを許してくれた父母に、私は計り知れない恩義を強く秘めていた。宇大では有機化学を、名大では美学美術史を学び、絵画の塗料分析の出来る美学生など稀だったので、私のような粗野な人間でも少しは嘱望され、大学に残る予定であったが、父のリハビリの事も有り、私はためらわず、地元での開塾を決心した。それに、大学で父のような教師になることが夢であったが、松下村塾やシーボルトの鳴滝塾のように、全く自由な教育の出来る私塾も悪くはないとその当時から考えていた。実体は学習塾だが、理念は哲学塾であるという自負から、「渡辺学習塾」でなく、「渡辺私塾」と命名したのもその思いからであった。そして、現在も授業の合間に行われている、高1数学クラスの「特殊相対性理論」講義、高2英語クラスの「言語と芸術」講義や、多くの哲学、文学の話の中で、その思いは脈々と息づいている。
 今にして思えば、当塾第1回卒業生である弟も、現在荒町教室塾長として教育にたずさわり、サラリーマンであった兄も、会社の研究室で研鑽し、急逝する直前まで1年余、岩手大学名誉教授として教鞭を執っていた。何と息子3人全員が、足を引きずりながらの父の歩んだ同じ道を、無意識に選んでいたのである。
 開塾35年目に入った渡辺私塾。「自由な教育」の結果として、芳賀郡の進学実績の向上も使命の一つであったが、高等部卒業生だけでも約3000名を数え、そのうち2000名近くが国公立大に進学し、中等部を合わせれば、卒業生も1万人を越えている。使命の何割かは果たしていると、父も優しい笑みで認めてくれるであろう。
 また地元の文化芸術の発展の一助になることも、当塾の目標の一つであるが、文芸賞創設、絵画展開催、いちごてれび高校講座中学講座放送、文芸誌発行、本の出版(計10冊)、渡辺私塾文庫創設などではまだまだ不十分であることは、重々承知しているので、幾つかの密かな計画も持ち合わせている。
 父よ、病魔に冒された後のあなたの悲嘆、苦渋、刻苦は、私達の想像のはるか向こうにあるが、父よ、朝目覚めるたびのあなたの絶望と、その病躯で職を全うした真の勇気からすれば、今の私の努力など取るに足らないと、真顔で諭すように言うだろう。
 それでも本当の事を言ってもいいよね、父よ、願わくば、あの世では、陸上選手として褐色の肌でトラックを走り、イージーライダーの様に単車を走らせた、あの元気で若くて頑強な「お父ちゃん」に、会いたい。


「真岡新聞5月29日号掲載」

益子ワグナー・ナンドール春期展を観て
           
渡辺私塾台町本校塾長    渡辺淑寛

 初夏の香をそっと乗せた春風の吹く5月初旬、田野に住む娘に、「益子に素晴らしい彫刻美術館があるから一緒に見に行きませんか」、と誘われ、妻と娘と孫娘の4人で、何の予備知識も無く、散歩気分で出かけた。
 窯業指導所の角を曲がり、細い山道を登り、駐車場で車を降りると、既にそこから代表作「哲学の庭」の彫刻群が屹立(きつりつ)するのが見え、もはや異次元であった。自称三流美術評論家を自任する私が、この美術館の存在すら知らなかった事に恥じ入りながら、受付に行く。受付で、ナンドール展は、4月15日〜5月15日、10月15日〜11月15日の年2回のみの開催であること、1ヶ月の期間中は一度入館すると以後は何度でも入館無料であること、会場内に日本風いろり室があること、お茶や菓子が用意された入館者用休憩所があること、などを知って、更に驚いた。素晴らしい「異例」ずくめである。
 館内に入って、再度驚嘆し、震撼した。作品群の芸術性の高さにである。ゴッホ、フェルメール、山下清、平櫛田中、ロダン、マイヨール、ブルーデル等の傑作に劣らぬエネルギー、波動の強さに圧倒された。ワグナー・ナンドールとは如何なる作家なのか、何故益子にこれ程の美術館が存在するのか。その日は、夢の中、霧の中にいる思いで家路についた。 
 翌日、美術館アトリエに展示されていた「ハンガリアン・コープス像」を今一度観たいという抗しがたい衝動に駆られ、一日おいて再度益子を訪れた。数十年に及ぶ美術館巡りでこの様な経験は初めてである。この作品を観て、最初はキリストの磔刑像だと思ったが、「コープス」とは「死体」の事であり、「ハンガリー兵士の死体」というタイトルではと推測し、凄まじい反戦作品だと確信した。これ程の芸術家が何故日本に帰化し、何故益子に骨を埋めたのか、今だ霧は晴れなかった。謎解きの鍵は、受付で購入した、「ドナウの叫び ワグナー・ナンドール物語」(下村徹、2008年,幻冬社)という1冊の本であった。
 本当に読みたい本を無心で読み耽る事が、真の読書なのかも知れない。400ページ近い大作であったが平易な文体で読みやすく、仕事の後、深夜一気に読み終えた。謎が解けた。
 ワグナー・ナンドール。1922年ハンガリー生まれの世界的彫刻家。第2次世界大戦及びハンガリー動乱(1956ハンガリー革命)で、想像を絶する残酷で理不尽で悲惨な戦争体験の後、1956年スウェーデンに亡命。1966年日本人女性と結婚。1966年益子に移住、1974年日本に帰化。1997年11月15日永眠。子供の時から、祖父の影響で、東洋の思想に興味を持ち、小国ながら、日露戦争で強国ロシアに勝利した日本国と、武士道などの日本文化に強い憧憬の念を抱いており、数奇な運命を辿りながら、聡明美麗な日本女性との出会いを契機に、神に導かれるがごとく「日本人」となった。
 ナンドール芸術の偉大さは、強烈な反戦思想に留まることなく、人類に対して、確かな希望と進むべき道を暗示している所にある。「ハンガリアン・コープス像」の右手は、人類の過去の罪を全て握り隠し、力強く天を指す左手の指は、まさに希望を指し示している。だからこそ、この像は、現在、「ハンガリーの希望」と呼ばれている。そして「哲学の庭」に佇み、ナンドールほどの芸術家が益子に移住した奇蹟を天に感謝しながら、キリスト、釈迦、老子、モーゼ、ガンジー、ハムラビ、アブラハム等の作品と静かに対峙すれば、宇宙の真理はただ一つで、宗派、思想の違いは、時代性地域性の違いにすぎないと、我々は静寂の中で感得出来る。
あらゆる芸術作品は、空間と時間を所有する。夜空を染める美しい花火は、はかない一瞬の時間と壮大な空間を、絵画は額縁という小空間と、悠久の時間を所有する。その点で、周囲の景観と融合できる彫刻芸術は、壮大な空間と、悠久の時間を、同時に所有出来る祝福された芸術である。
 春5月緑なす新緑の中に屹立した目映(まばゆ)い彫刻群を回想しながら、暮れなずむ秋10月、私は身も心も研ぎ澄まし、きらきら光る紅葉を背に屹立する作品群の輪の中で、宇宙の秘密について語り尽くそう、ワグナー・ナンドールよ、年に2度、月命日に降臨するあなたと共に。


2009年 1月6日

 なんと1年半ぶりの蒐集雑感になってしまいました。文庫館への本の搬入もほぼ終了し、あと少しで希望者に解放出来そうです。絵画は、置く場所が無くなりましたので、稀覯本を少しずつ蒐集しています。恩地関連、集古十種関連本も蒐集を増やしていますので、目録を見て頂ければ幸いです。購入資金は微々たるものですので、高価なものは所蔵出来ませんが、こんな時代ですので驚くほどの廉価で蒐集しています。今は、零細コレクターにとっては一番良い時代なのかも知れません。
 昨年末、6冊目の拙書、「渡辺淑寛著作集 存在とは進化」が真岡新聞社から出版されました。真岡新聞に掲載された50数篇から、手元に残っていた36篇をそのまま所収しましたので、すでに読まれたものも多いでしょうが、興味のある方は一読して下さい。真岡新聞社、渡辺私塾台町本校で購入できます。高三生卒業式に間に合いましたので、この著作集と、2001年出版の奇書「潮に聞け」の2冊を全員に贈呈できて、内心大変喜んでいます。
 体の方は一進一退の状況ですが、「全ての人が芸術家である社会に向けて」超多忙の中、粗野なエネルギーに充ち満ちて邁進しています。私の本当の人生はこれからなのでしょう。

2007年 9月11日

 
1年ぶりの蒐集雑感です。本年1月に念願の図書館と文庫館が完成しました。2区画の土地の購入時に付いていた古い建物2棟を改装しただけの粗末な図書館と文庫館ですが、ひとまず夢が叶いました。小さな結実であっても、静寂な満ち足りた気分です。図書館には詩集を中心とした文芸書、思想書、辞書、洋書、全集等が置かれ、高3生が自習室として毎日利用しています。文庫館はいまだ江戸本、洋書、挿し絵本、限定本等の搬入中で来年までかかりそうです。来年からは塾生、卒業生、研究者が閲覧出来るようにと思っています。
 先日、東京外大に入学した卒業生から、蒐集雑感を楽しみにしています、と言われ、はっと我に返ったように蒐集雑感の事を思い出しました。蒐集雑感を読むような奇特な人は世界中で一人もいないだろうと思っていましたので、彼の言葉はすがすがしいエネルギーになり今こうして書いています。
 高校生3百名全科目担当ゆえ、スーパー多忙で、雑感まではなかなか手が回らないのが実情ですが、少しずつ書き続けていこうと思っています。


2006年 8月16日

 
10ヶ月ぶりの蒐集雑感です。「神崎温順」、「古沢岩美」、「高梨一男」、「芹沢けい介」、「西川満」、「竹久夢二」、「金守世士夫」、「奥の細道画冊」、「田川憲」を「5」から独立させて27〜35としました。少し見易くなったと思います。
 今年度入試の成績は、昨年に増して好成績で、高校入試は全6教室176名全員県立高に合格、大学入試では、東大3名、京都大、お茶大3名、東京外大3名、大阪大、東北大10名、高知大(医・医)、自治医大(医)ほか77国公立大に合格しました。(最終高3卒業生98名) 地方の一塾一教室からこれだけの実績は、都会の人には信じられないと思いますが、事実です。浪人生や途中退塾者は含まず、最終卒業生だけの実績です。夏期講習、冬期講習もせず宿題は出さず、ただただ論理的本質的良質な講義に心血を注いでいます。世の風潮が、少人数授業とか個別授業とかの授業形態に目を奪われている限り、当塾から永々と数多くの塾生が難関大に合格し続けることでしょう。
 数年後文庫館建設を予定していましたが、現在の益子の研修所を、来年から渡辺私塾図書館分室として書庫として使用し、文庫館建設予定の隣接地に数年後、塾生が常時利用出来る図書館を建設し、図書館内に当文庫の1部を常設する事にしました。以前とはやや異なる形態になりますが、夢の実現は以前より速い足取りで一歩一歩近づいています。
 ですから久しぶりに書かせて頂いて宜しいですね、「私達は目指しています、全ての人が芸術家である社会を」と。


2005年 10月31日

今回は2ヶ月ぶりの蒐集雑感です。当文庫の柱の一つはもちろん「恩地孝四郎」ですが、バラバラであった「関係本」と「版画」を一緒にし、新たに、「装幀本」、「図録・特集誌・記事掲載誌」、「恩地孝四郎賛歌」を新設して、{2}T〜Xとしました。{1}アルス日本児童文庫、と合わせて 、日本有数の恩地総合コーナーになればと願っています。また「関野準一郎」、「川上澄生」、「横田稔」、「プレス・ビブリオマーヌ関係本」、「稲垣史生原稿」、「久保貞次朗」を「5」から独立させて「21」〜「26」としました。改めてご覧頂ければ幸いです。
蒐集雑感2005年9月5日号で「大貫松三展」に言及しましたが、貸し出した2点のうち、30号「静寂」の真贋が確定せず出品は見送りになりました。私としては、大貫作品の芸術性の幅を広げる秀作であると認識していましたので、残念なのですが、専門家の結論ですので甘んじて了承しました。8号「無題」は展示中です。
10月18日、ルオー「悪の華」(1979,岩波書店、アクアチント、白黒14点)を、幸運にも入手出来ました。(「12」海外版画1参照)この版画集は、ルオーが1927年に完成させ、ヴォラールの手元にあった450部を、1966年、令嬢イザヴェル・ルオーが流れる星出版協会から刊行した作品で、そのうちの170部を岩波書店が取得し、1979年日本で発売したルオーオリジナル版画14点です。1979年当時かなり話題になり、抽選で購入者を決めるとのふれ込みでした。26年前、今の仕事を始めて5年目、高額のため、購入申し込みなど不可能でしたが、26年後、物価を考慮すれば5分の1程度の金額で入手出来ました。「時間」に感謝しつつ、多くのルオー愛好家に代わりまして、当文庫で大切にお預かりしたいと思っております。


2005年 9月5日

6ヶ月半ぶりの蒐集雑感です。今回は4つのニュースがあります。第1グッドニュース。今年も中3生、高3生の入試結果は抜群で、中3生33名全員が県立高に合格し、高3生も、98名中65名67国公立大に合格しました。この数字は、私大専願受験生11名、有名難関私大合格のため国公立大受験を中止した複数の塾生を考えますと、驚異的です。東大、京大2名、お茶大2名、東京外大、名古屋大、東北大6名、北大2名、筑波大5名など難関大にも合格していますが、特筆すべきは、自治医大(医)に2名合格したことです。栃木県定員枠が3名のみであること、栃木県では優秀進学高が県央、県西に集中していて真岡市が県極東に位置していることを考え合わせれば、奇蹟に近い快挙なのですが、平成10年度にも2名合格を果たしていますし、3年前には京都大医学部、防衛医大2名合格もありますので、当塾上位生の学力は想像以上なのでしょう。それにしても私の心臓病は、自治医大の教え子とその友人に治してもらった訳ですから、自治医大との不思議な縁、見えない力を強く感じています。
 第2グッドニュース。インターネットを通して、京都大学名誉教授故生田耕作氏のご子息様と知遇を得、稀覯本蒐集家としても著名な耕作氏の旧蔵本をお譲り頂き、【20】洋書2,「生田耕作旧蔵本」として、当文庫の目録に掲載することが出来ました。「生田耕作旧蔵本」コーナーを持てるなどとは、文庫開設者にとっては、夢の夢で、至上の喜びです。生田耕作氏は、日本文芸史上屈指の仏英米文学者で、アカデミックな世界からも、反アカデミックな知識人、学生の両方から高く評価された学者で、私も屈折した学生時代、密かな畏敬の念を禁じ得ませんでした。ご子息様も人格者でいらっしゃり、メールのやり取りを楽しんでいます。
第3グッドニュース。当文庫の所蔵作品油彩画2点にたいして、平塚市立美術館から展覧会の出品要請があり、先日わざわざ自宅まで受け取りにきてくれました。2作品は大貫松三の30号「静寂」と8号「無題」で、10月1日からの12月23日まで開かれる「大貫松三展」の為の出品依頼でした。30号油彩画「静寂」は、作家の詳細を知らぬまま、作品に圧倒的に魅入られて、それでいて超廉価で入手できた自慢の所蔵品です。大貫松三は、1905年神奈川県に生まれ、芸大卒業後、1931年から平塚市の高校で6年間教鞭を執とり、平塚市と縁の深い画家でした。1937年1938年第1回、2回文展で特選 を受賞し、日本洋画壇を背負う実力派の俊英と嘱望されましたが、自ら中央画壇から距離を置き、1982年77歳で他界されました。8号「無題」は、以前にオークションで偶然見かけ、その少女の眼差しに魂を奪われるのでは、と思える神秘的な作品でしたが、やや高額であったため、(それでもバブル期からすれば、ただ同然の価格)購入を見送った作品です。30号の出品依頼があった後で、偶然再度この8号が同じオークションに出品されたので、意を決して購入しました。2点の出品は、いわば愛する子供達が大舞台に初めて立つようなものですので、多忙の中、一度平塚まで足を運ぼうと思っています。
 第4リトルハッピーニュース。3年ほど前から、バセンジー種のお母さんと謎の好色犬の父からめくるめく密会で生まれ出た雑種犬を飼っていて、いつの日かはバセンジー純種犬を飼おうと夢見ていました。そんな折り、近くのホームセンターで純種犬が売りにでたのですが、当然のごとく高額で手が出ませんでした。この様な田舎でバセンジー犬を飼う人などいないだろうと腹を決め、我々夫婦の得意技、「値下がりを待つ」を決行し、息を潜めてじっと待っていたところ、2ヶ月ほどで3分の1近くまで値下がりした時点で見事購入できました。雑種犬の名がパスカルだったこともあり、プラトンと名付けられたこのバセンジー犬のことを調べてみると、バセンジー種は古代エジプト王家の愛玩狩猟犬だったようで、我々平民を見下すような横柄な態度をとる理由もわかりました。ところが夏祭りさなか花火大会の夜、この傍若無人の若殿は、花火の音に驚愕して、首輪を自分で抜いて脱走し、過酷ではあるが自由の旅に旅立ってしまいました。家族全員で明け方まで辛い気持ちで探したのですが、徒労に終わり、家内などは、やや変態気味ですが首輪の匂いを嗅いでは泣き続けていました。すると、三日後、、若殿とのとわの別れを覚悟していた家族の元に 、捜索願を出していた警察から電話があって、親切な市民のかたが預かってくれていると言う一報が入り、歓喜の中で再会できました。二日間飲まず食わずで走り回ったのか、爪は磨り減り、足裏は破れ、真岡市民二家族の献身的な救出で危機一髪生還出来ました。真岡市民、真岡警察署に感謝!日本万歳!人類万歳!生き物万歳!宇宙万歳!存在万歳!
このリトルハッピーイベントの後は、我々夫婦は毎日欠かさず50分ほど、多忙の中、パスカルとプラトンを散歩に散れ出すようになり、私の心臓も絶好調で、生きる意欲に充ち満ちています。ですから、遥か数千年後、全ての人が芸術家である社会、貨幣も国家も暴力も無い社会に向けて、かすかな一歩を歩んでいこうという思いは微動だに致しません。


2004年12月2日

11ヶ月ぶりの蒐集雑感です。今1月2日の蒐集雑感の後半部分を読み返していた所です。台町本校中3生は39名全員県立高に合格し(8割の子は真高真女高以上の高校に合格という好成績。)、高3生も89名中65国公立大に合格という予想を超えた出来でした。心臓も順調で鉄の心臓に変わったごとく、全身に力強く、熱き血潮を送り出しています。それでも、超多忙さは相変わらずで、ここ数ヶ月は、朝6時前には寝床に付けません。中3生と300名を越える高校生を教えていますので、当然の事なのでしょう。
文庫館建設の方は、土地の取得が9月で全て終わり、順調に進んでいます。2年後の着工と言う思いが、心の何処かに根付きつつあります。何か大きな力に守られているような気がしなくもありませんが、「全ての人が芸術家である社会」に向けて、子供じみてはいても、かすかな一歩を踏みしめて行くしかありません。それが私の使命だと、少し恥じらいながらも確信しています。
所蔵品も大分整理が出来て、稀覯本を入れると7000点を超えそうですが、何処に何が有るか解らなくなって、途方に暮れることも度々です。
そうそう、「ひかえめな花」が休止状態になっていて、楽しみにしている数名の方に対して、心苦しく思っているのですが、「愛の三行詩」の崇高な炎は、私の心の奥の方で、かすかではあっても、怪しげな微光を放ち続けております。いましばらくお待ち下さい。

もう師走だというのに、庭のサザンカ達が優しい日差しの中で、目映いばかりに、開花と言う名の自らの使命を、けなげに果たしています。どうして私が負けていられましょうか。


2004年1月2日

半年ぶりの蒐集雑感です。当文庫をホームページ上に開設して既に一年半になるのですが 、美術書を中心にまだまだ未整理で、ひとまずの完成までには、あと数年かかりそうです。                                     
 昨年末、アルス日本児童文庫、恩地孝四郎、集古十種、中村忠二を独立させ大見出しにしましたので、少し見易くなったかも知れません。昨年、中村忠二の小品を最初に見たとき、詩と絵画、言語と芸術の根元的関わりを想起させる芸術性に触れ、静かな感動を覚えました。そういえば、4,5年前から夏休みに8回ほど、高2英語の授業中30分ほど時間をもらって、川上澄生、宮沢賢治、深沢七郎、南都麗、私の美術評論を題材に、「言語と芸術」と題して、こっそりと講義を続けています。そのせいもあるのでしょう、一目で中村作品に魅了され、更に何かの縁なのでしょうか、廉価で多くの作品が入手出来て、C番として大見出しにした次第です。話は戻りますが、私の8回の秘密の講義に対して、卒業時「当塾に残す言葉」に、「とても印象的だった。」「もっと聞きたかった。」「多分一生に一度しか経験できない講義内容で嬉しかった。」等、多くのお褒めの言葉を残してくれました。大学入試とは無縁の講義であるのに、予想を超えた反響を考えると、今の少年少女は、心のどこかで、純粋で繊細な心の揺れ、精神の震えを望んでいるのかも知れません。
 昨年8月の蒐集雑感で「南都麗は不死身です。」と書いたところ、罰が当たったのか、9月末に、心臓病で緊急入院し、冠動脈にステントと言う金属を2個入れてもらい、人造人間キカイダーとして生還しました。今は、死の予感に包まれた胸の鈍痛から解放され、あと二、三百年は生きられそうなほど元気で、南都麗は疑似不死身です。カテーテル検査を受けた総合病院の担当医師の一人が偶然教え子で、治療を受けた大学病院の医師は教え子と旧知の同期生で、かなりの強運に恵まれた様です。治療後、「大成功でしたか。」と言う私の問いに、その優秀な若手医師の「大成功どころか、これ以上の出来は有りません。」という自信に満ちた返答を聞いて、他人事の様に感心し、彼の技術と自負と歯切れ良さを他人事の様に喜びました。私のこの不思議な程の達観は、重要な仕事の途上の私がけして死ぬはずなど無いという、漠然とはしているが揺るぎない確信でした。そして「重要な仕事」とは、今年度の中3生、高3生をまだ卒業させてはいないという事と、もう一つは文庫館の建設です。


2003年8月
 
久しぶりの蒐集雑感ですが、今回はT、美術書、稀覯本、、、の3と全くの重複です。(2003年12月にB番の「集古十種」として独立し大見出しになりました。)

追記1,はまさに蒐集雑感そのものですので、敢えて2003年8月号として掲載しました。そちらで読まれた方には、お詫び致します。
正業、文庫の整理、ライフワークの研究と、スーパー多忙で、蒐集雑感もひかえめな花も書けけないでいますが、時期をみてまた書き始めます。数少ない方でしょうが、もうしばらくお待ちください。南都麗は不死身です。
集古十種、85冊全揃い(松平定信編、松平家蔵江戸版、奥文庫蔵書印)(写真)

福島県立博物館の研究(注参照)を考慮をすると当文庫本は松平定信が在世中に刊行した定本か、それに近いものであると推定しています。江戸版で85冊全揃いはまれであり、さらに松平定信の定本であるとすれば、きわめて貴重であると思われますので、研究者の当文庫本の調査研究を期待しています。
注:「集古十種」福島県立博物館 平成12年p96〜p97

 
「追記1」
ホームページ内に、渡辺私塾文庫を開設して以来、当文庫の「集古十種」が、松平定信在世中の「定本」か、「それに近いもの」であると何故言い得るのか、という問い合わせが何度か有り、中には、専門家の、「軽々しく定本などと言うべきではない。」という意見もありました。そのような専門家にしてみれば、その非難は、次の2つの理由で至極当然の事なのでしょう。第1点、田舎の弱小文庫に、極めて稀少な集古十種が完全揃いで有るはずがない、ということ。第2点、定本かそれに近いもの、と断定する根拠が未だ専門家の間でも確立されていない、ということ。この2点の指摘は当然予想された事であり、「追記」の上の5行の文章では説明不足であることは自明です。ですから先の専門家に対しては、露程の反抗心も抱いておりませんし、かえって私の考えが整理出来たことで深く感謝しております。以下上述の2点について可能な範囲で説明したいと思います。

  • 第1点について

    宇都宮大学の4年間は、古書好きではありましたが、工学部生でしたのでそれほど多くの古書は購入しませんでした。名古屋大文学部に再入学した後は古書店通いがこうじて、真岡市に戻る時、余りの古書の多さに、往生したことを覚えています。その当時から木版画本に愛着があり、特に、名古屋の美術館で(多分徳川美術館)集古十種と邂逅してからは、死ぬ前に1度は、必ず、集古十種江戸本を所蔵する、と決意していました。それから20数年が過ぎ、酒煙草博打はもちろん、車も持たず、ただがむしゃらに働いて少し金銭的に余裕ができ、バブルも終わり、神田神保町の古書店ともお付き合いが出来るようになった7年前、1996年11月の大入札会の目録で、集古十種江戸本を目にしました。英王堂蔵書印、英国薩道蔵書印のある眩しいほどの木版画本でしたが、なんと7冊欠本の78冊セットです。こんな時は、自分の目で確かめて入札するか否かを決めるのが常道ですが、一目でも見たら欲しくなるに決まっていますので、真岡で数日、熱が出るほど考えたあげく見送ることに決めました。「江戸本85冊揃いを20数年待ったのではないか?あと20年待て」、という叫びと、「今買わないと、死ぬまで買えないぞ」、という叫びの葛藤でした。背筋が冷たくなるような決断でしたが、この選択は 、ぞっとするほどの大正解でした。2年後の同じ入札会で、待望の江戸本85冊揃いが出品され、更にこの2年間で古書価格が一層下落し、二重に祝福された正解だったのです。入札に関して優れた嗅覚を持つ古書店主に依頼し、私が用意出来たぎりぎりの金額で、際どく落札しました。2年前の半値以下であったという話もあったほどで、幸運と強運の入り混じった奇跡的落札でしたが、私は、何故か、落札出来るという予感があり、変に冷静でした。
    これが、田舎の弱小文庫が、極めて稀少な集古十種85冊揃いを所蔵した経緯です。そして、もうお解りのように、当文庫が集古十種揃いを入手できた原動力は、大美術館の関係者諸兄の美術品購入の情熱と比べて、数千倍にも及ぶ私の情熱の深さです。
    ところで、集古十種江戸本にも、いくつかの後刷り本があること、更に「奥文庫印」の意味については、私はこの時点では知りませんでした。
  • 第2点について

    入札会目録にも、当文庫本は「松平定信編、松平家蔵版、寛政12年刊」と明示されていましたので、当然寛政12年(1800)のものと思っておりました。ところが、3年前福島県立博物館で開催された「集古十種展」の図録内の、「集古十種の諸本について」
    (佐藤洋一主任学芸員)の明晰な論文を読んで、江戸本にもいくつかの後刷り本があると納得させられました。明治後刷り本は、端本ながら全種所蔵していましたので既知でしたが、江戸異本については、全く無知でした。
    佐藤氏の論旨は、極めて科学的、論理的、実証的で驚嘆に値します。佐藤氏は、木版木特有の「虫食い」に着目しました。年代が進むにつれて、虫食い箇所が拡大し、それが刷り上がった紙面に反映されるはずであるという考えです。この手法は、木版木であり、かつ百年ないし二百年前の作品に対してのみ有効であると思われますが、「集古十種」に最適であるのは明白です。佐藤氏は、虫食い程度の確認を容易にするため、黒べタ部分の多い図版として、「碑銘三」の「陸奥国宮城郡燕沢村碑」を選定しました。また比較対照用の集古十種版本として、1,彦根城博物館本54冊(12代藩主井伊直亮の蔵書印が有り、この蔵書印の使用時期下限は直亮没年の1850年)、2,三春町歴史民族資料館本33冊(桑名蔵版之印が有り、使用時期は1823年から幕末まで)、3,福島県立図書館佐藤文庫本85冊(江戸本の、写真撮影による影印本か)、4、青木嵩山堂本(国の重要文化財に指定されている集古十種版木で作られた明治後刷り本、1899年)の4点を佐藤氏は用意しました。調査の結果、虫食いの進行の違いが、見事に確認され、青木嵩山堂本版木の虫食いは、かなり大、佐藤文庫本は、やや大、三春町本は僅か、でした。そして残念なことに彦根城本は、「碑銘三」が欠本で、佐藤氏はここで調査を終了し、以下の結論を提示しました。

  1. 1800年、集古十種稿52冊(彦根城博物館蔵、かなりの加筆訂正がなされ現存の集古十種になる。今でいう見本本のようなものか。)
  2. 1822年以降、三春町本
  3. 1899年以前、佐藤文庫本
  4. 1899年、青木嵩山堂本
  彦根城54冊本の調査不能は惜しまれますが、佐藤理論を用いれば、今後発見されるであろう、集古十種版木による江戸本の全ては、虫食い状況の精査によって、年代順に正確に配列可能になります。その意味で、佐藤理論は、集古十種研究史上一大金字塔と言っても過言ではないでしょう。
さてここで当文庫の集古十種に話を戻しますと、当文庫本の「碑銘三」は写真のように虫食いは皆無で、埋木等の修理をした痕跡も無く、三春町本より古い版本であることがほぼ証明されました。また福島県立博物館集古十種図録の各版本と当文庫本の表紙を見比べますと、集古十種稿、佐藤文庫本、青木嵩三堂本はそれぞれ異なった唐草文様であり、彦根城54冊本、三春町本、当文庫本は、写真のように横線模様で、三春町本のみが赤みが強い色合いになっています。この色合いの違いは、色焼けや印刷の問題ではない制作時の色の違いに思えてなりません。そして彦根城54冊本と当文庫本は、色合い文様とも全く同一で、彦根城本の蔵書印の使用時期の下限が1850年であることを考え合わせれば
、この2つの版本は同一時期のものと推察します。
また、当文庫本の蔵書印「奥文庫」は(写真)、固有名詞ではなく、奥座敷とか奥医師の「奥」で、松平定信から贈呈された、松平家と縁の深いお大名が、散逸させたら事だと、「奥文庫」に永く仕舞い込んだと推測することも可能です。もしそうだとすれば、当文庫本の異常なほどの状態の良さが説明できます。
以上のことを考慮して、上述5版本の年代順仮説をたててみました。やや実証性に欠けますが、集古十種研究家の一助になれば幸いです。

  1. 1800年、集古十種稿
  2. 1800〜1830年、彦根城54冊本、渡辺私塾文庫本
  3. 1830〜1860年、三春町本
  4. 1860〜1899年、佐藤文庫本
  5. 1899年、青木嵩山堂本
「追記2」
参考のため、当文庫所蔵の明治後刷り本を紹介します
  1. 青木嵩山堂本、1899年、総目録3冊が追加されて全88冊 (写真)
  2. 東陽堂支店本、1902年、全10巻8分冊 (写真)
  3. 侑文舎本、1903〜1905年、全21冊  (写真)
  4. 国書刊行会本、1908年、全4冊、洋書版  (写真)
    大正時代以降では、1915年に芸艸堂上下2巻
    1950年に名著普及会全4巻、どちらも国書刊行会本が底本
                                       (追記T,2とも、2003,8,14,渡辺淑寛記)

2003年2月
先日、恩地孝四郎についての、すばらしいお問い合わせが有り、嬉しくなって長々とメールしてしまいました。私にとって楽しい交信だったのですが、恩地について少しでも興味の有る方にとって多少参考になるのでは一人得心して、2月の蒐集雑感に代えたいと思います。

「メールでのお問い合わせ」
突然のメールで失礼いたします。
私は、版画という芸術分野にたいへん興味を持っている者でご
ざいます。
最近は、版画と本との関係についてもいろいろと資料収集や研
究をしております。
ホームページを拝見いたしますと渡辺様は、恩地孝四郎氏につ
いてたいへんお詳しいとと察しますが、お尋ねしたい事がござ
います。
恩地孝四郎氏は、日本の木版画に「現代」を持ち込んだ、ある
面では棟方志功を超える美術家であると思います。私もその恩
地氏の木版画を、いつか是非手元で観てみたいと思っておりま
す。
ただし、一枚ものの版画は言うまでもなく、版画入り本(新頌
富士、日本の花、無為の設計等)の入手も価格の面から個人的
には困難です。そこで、恩地氏による木版画による装幀本やそ
の中に挿入されている口絵を入手したいと考えているところで
す。私もいろいろと資料を観ているのですが、単なる印刷によ
る装幀本とオリジナルによる木版装本との区別がよくわかりま
せん。いろいろと美術館にも問い合わせたりしたのですが、恩
地氏の幅広い創作活動の一部しかとらえておらず、わからない
ようでした。例えば昭和21年に富岳本社より発行された「日
本裸体美術全集」も恩地氏が装丁とはなっているようですが、
その表紙の木版装が本当に恩地氏の自画自刻なのか出版社の工
匠によるものか良くわかりません。
渡辺様の知り得る範囲で結構ですが、入手しやすい、そして隠
れた恩地氏の木版による装幀本(あるいは口絵入り本)はござ
いますでしようか。お教え頂ければ幸いです。
お忙しいところ、さらに不躾なメールで申し分けございません
がよろしくご教示お願い申し上げます。   


「メールへの返信」

北関東では、雨巻の山々から吹く風にも、木々の芽の息吹が満ちて、私たちは、その優しさに誘われて、庭の芝生で、愛犬パスカルに頬ずりなどしています。
メール有り難うございました。今回のような問い合わせは、文庫を持つ者にとっては大変嬉しいものでして、心より感謝致します。
さて本題にはいります。日本裸体美術全集の表紙及び一頁め(本名と出版社名の頁)
は、恩地氏の自画自刻の木版装であるとおもわれます。例えば、表紙と一頁の「體」の曲や月の部分に明らかな違いが見られ、また本文1,2頁の印刷文字とも異なっているので、表紙と1頁の文字は、恩地氏の手書き文字であると推察されます。第2点として、2面の文様とも、恩地氏独自の不思議ぎで妖しげな花柄文様で、終戦直後、時代や地域を超越して、堂々とこのような異様な「色と形」を大衆に提示できたのは恩地氏をおいて他にいないでしょう。この2点から、「自画」であることは、露ほどの疑いもなく確信できます。次に「自刻」かどうかの問題ですが、富岳本社は、恩地氏が柱の零細出版社であって、経理事務以外は、彼の担当で、出版社の工匠とは、まさに恩地氏自身であった、と何かの本で読んだことを覚えています。彼は、自画自刻を標榜した版画家であった訳ですから、自分の作品を関野氏に刷らせることはあっても、他人に彫らせることは皆無に近かったと推察できます。以上30数年に及ぶ私の恩地研究の臭覚からしても、自画自刻ではないか、とお答えします。
次に、「恩地の入手しやすい隠れた装幀本」の件ですが、私はためらわず、「日本の花」をお薦めいたします。古書業界では、前川、川西、川上三氏の多色木版画3枚添付本ということになっていて価格も3万〜5万が相場ですが、他に恩地12枚、上記3氏各5枚が粗悪な薄紙に直接赤黒2色で木版刷りされています。赤黒2色配色は、日本人には人気がないのでしょうか、ほとんどの「日本の花」掲載の古書目録では、恩地についてはふれていません。それでも躍動感と生命感に満ちた恩地作品12点は、ウイリアムブレイクの悲しみの諸作品を、健康的に凌駕するかのようです。更にこの12点は、恩地の唯一のレゾネと言われている「恩地孝四郎版画集」(形象社、1975)に263〜274として写真入りで掲載されています。最後に入手方法についてですが、「日本の花」は、古書目録でよく見かけますので、神田神保町の限定本専門古書店に根気よく問い合わせれば、入手可能だと思います。
真摯で良質な問い合わせに、嬉しくなって、饒舌になってしまいました。少しでもお力になれたら幸いです。

渡辺私塾文庫 渡辺淑寛


「返信の返信」
渡辺私塾文庫  渡辺淑寛 様
丁寧なご返信ありがとうございます。感謝、感激でございます

最初の「日本裸体美術全集」の細やかなご推察には、長年にわ
たる資料収集と研究の賜物だと思います。おそらく日本広しと
言えどもここまでわかる人はいないのではないのでしょうか。
「富岳本社は、恩地氏が柱の零細出版社」についても「版画芸
術」の恩地特集号、恩地三保子さんの文章の中に戦後の素人出
版社では苦労させられたという記述があり、このことを言って
いるのかと納得いたしました。
この富岳本社は、版画にかなり力を入れていたようで多くの出
版物を残しているようです。はっきりと恩地氏の版画が挿入さ
れていると確認されている本他にも、「柳川風物詩」「日本の
自然美」「聖書」「草の葉II」が関与したものの例としてあげ
られていますが、現物も少なく、はっきりとした記述がされて
いる資料はないようです。
 最近ではうらわ市立美術館のようにブックワークを収集の方
針としているところもでてきましたが、もっと恩地氏の幅広い
業績を企画されても良いと思います。そうしないと、恩地の版
画の多くが海外へ流失し、限定が少なく、なかなか現物を観る
機会かないため棟方、駒井、長谷川、池田より一般に知られて
いないのは、大きな文化的な損失です。そのためにも入手機会
がある版画入り、あるいは版画装本の発掘と紹介がされればよ
いのですが。
 それから「日本の花」、がんばって探してみようと思います
。ご紹介ありがとうございました。
 また蒐集雑感の件ですが、私の愚問が問題提起に役立てば望
外です。よろしくお願いいたします。
 これからもますますのご収集・研究の充実、そして全ての人
が芸術家である社会の実現を祈念しております。ながながとな
りましたが、取り急ぎお礼まで。


2月の蒐集雑感の追記
返信の返信もすばらしい内容で、お礼の言葉も有りません。特に、「そうしないと〜大きな文化的な損失です。」の表現は、恩地の日本における現在の評価を的確に表していて、この方の、着実な恩地研究、深い洞察力が感じられます。今後の一層の御活躍をお祈り申し上げます。


2002年 10月
神無月、大地の優しさなのでしょうか、庭の山茶花が、恥じらうように薄紅色の蕾をつけて、スノーフレイク(綿毛)の雪を舞い降らせる冬を、そっといざなっています。

先日、神戸在住で著名な日本画家の御子孫の方から、当文庫に丁重なお問い合わせが有り、こちらから資料を送ることができました。非常に礼儀正しい方々で、微力ながら、お力になれて、私にしてもこの上ない喜びです。この喜びを味わえただけでも、渡辺私塾文庫を開設したかいがありました。

さて、当文庫を開設して2ヶ月近くになりますが、まだ美術書、限定本を中心に1000冊以上が未整理であり、休みの日に少しずつ所蔵品目録に追加しています。当文庫の全貌が明らかになるのは、1年後くらいになるかもしれません。

この間、友人から、渡辺私塾文庫の中で柱になるものは何か、と聞かれ返答にこまりました。アルス児童文庫画稿1483点その中でも特に恩地孝四郎表紙絵口絵挿し絵312点、集古十種85冊揃い(江戸版)、ヴェルブ全26冊、モーリス ドニのポエム、ディケンズのデビットカッパーフィルド版画入り初版本、緑の笛豆本漆箱21個付き、平田松堂文展特選受賞作品、など頭をよぎりましたが、よくよく考えてみますと、1点1点どうしても欲しくて取得した物ですから、私個人からすれば全てが柱にちがいないのです。
その意味でも、できるだけ早く所蔵品目録を完成し、文庫館建設を急ぎたいと思っています。

ふと窓の外をみると、薄紅色の山茶花の蕾が、紅色の成人になろうとして、大きく深呼吸しています。今にも成就する大地の息吹のようで、目にしみます。植物達は毎年毎年繰り返し繰り返し成就を重ねているのに、何故人類は流血と破壊を繰り返し成就への歩みがおそいのでしょうか。言うまでもないことですが、成就とは、地上楽園地上天国の建設であり、全ての人が芸術家である社会、差別や暴力、人間を縛る貨幣さえ無い社会の実現に他なりません。この壮大な目標に向けて、人類の遅々とした歩をただ嘆くのでなく、私達は、今いる場で些細なことから始めればよいのだと思います。疲れた父に優しい言葉をかけ、母の作った手料理に美味しかったと言い、孤独な老人達をほほえみで迎え、悲しそうな少年少女に輝く未来の話をしてあげればよいのでしょう。

21世紀初頭の私達の一日一日が、人類の麗しい成就に向けてのかすかな胎動に、きっときっとなりますように。(第2回 終わり)


2003年1月
北関東では、元旦の夜、人類の空しい行いを悲しむかのように、小雪が舞って、咲き遅れた山茶花の蕾達を白いベールで包んでいます。それでも、秋に成就できなかった凍えた蕾達は、私達に、確かに彼らの夢を囁いています。「まだまだ人類史は前史です。数万年後、必ずや人類は地上楽園を実現し、動物植物鉱物、宇宙に存在する全ての物と、意識も命も共有し共生するときがくるのですよ。」と。
昨年12月、歴史と伝統ある、吾八書房の「これくしょん」に、大変名誉なことながら、私の拙文が掲載されましたので、2003年初頭の蒐集雑感は、寄稿文「私設文庫開設のすすめ」にて代えさせていただきます。
 
本文掲載

2002年 9月
北関東の灼熱の大地に降る雨は、まるで法悦の涙のようで、心まで潤います。

平成14年夏、念願であった私塾文庫をホームページ上にやっと開設できました。パソコンが苦手な私にとって人差し指だけのおぼつかない操作は、つらく苦しい作業でしたがお盆休み5日間を費やしてなんとかここまで仕上げました。少しずつ追加していきたいと思っています。
絵の蒐集を始めたのは、30数年前の学生時代からで、最初は廉価な版画や限定本を中心に集め始め、今の仕事を始めた頃から数を増やしていきました。日本画油彩画は主にバブル期前に50点、バブル後に150点ほど取得し、バブルの時期美術書以外一切手を出さなかった(正確には、手を出せなかった)ことは、今にして思えば大変幸運だったと思われます。バブル初期、その芸術性ゆえどう見ても二万ぐらいの価値しか無い絵に、大銀行の潤沢な資金を背景に一部の画商さん達が60万、80万と値をつり上げていくのを、オークション会場で目の当たりにすると、どうしてもその時期は絵を購入する気になれませんでした。バブルの狂気性は、地価、株価、種々の会員権にも増して、絵画市場で特に顕著だったのかもしれません。4,5年前、一万円で落札した油彩画の箱の奥に98万円の値札を見つけた時、得をしたという錯覚と、バブルの燃え残りを見る寂しさとが交錯して、複雑な気持ちでした。
大学を出るまでは虚栄心と好奇心だけの下品な青年だった私も、今の仕事を始めてからは、あまりの多忙さに、酒、煙草はもちろんのこと、車も持たず、それ故、遊び、旅行もせず、それ故当然、私のお小遣いは、全て絵と稀覯本に向けられました。今後もこの姿勢を変えること無く、当文庫を少しずつ充実させて行きたいと思っています。
所蔵品目録をご覧になった方はお気づきと思いますが、今売れ筋の高名な作家の高額な作品は皆無で、やや落胆なされた方もいらっしゃると推察します。それでも全作品気に入ったものばかりで、今後評価されるもの、あるいはたとえ全く注目されなくても、揺るぎない芸術性を持った作品が多いと確信しています。

もう秋なのでしょうか、窓の外では、山茶花の葉の上で,幾匹もの虫がツーツーと鳴いています。私もつかの間の眠りにつかなければなりません。次回の蒐集雑感では、個々の所蔵作品に言及するつもりです。 (第1回 終わり)


所蔵品目録


【1】アルス日本児童文庫

【2】恩地孝四郎

【3】集古十種

【4】中村忠二

【5】美術書・稀覯本・草稿・画稿・画帖

【6】洋書

【7】雑誌


【8】日本画

【9】油彩画1

【10】油彩画2

【11】版画

【12】海外版画


【13】補遺1


【14】補遺2

【15】陶板、金工、ブロンズ、石膏、染織

【16】江戸本

【17】下絵

【18】妹尾正彦

【19】海外油彩画

【20】洋書2、生田耕作旧蔵本

【21】関野準一郎
 
【22】川上澄生

【23】横田稔

【24】佐々木桔梗、プレス・ビブリオマーヌ関係本

【25】稲垣史生原稿

【26】久保貞次郎

【27】神崎温順関係本

【28】古沢岩美関係本

【29】高梨一男関係本

【30】芹沢_介関係本

【31】西川満関係本

【32】竹久夢二関係本

【33】金守世士夫関係本

【34】奥の細道画冊

【35】田川憲関連作品


◆蒐集雑感

ホームへ