リーフ

塾長の真岡新聞掲載記事を紹介します

平成22年1月15日号
超難関旧司法試験に合格した卒業生について
     〜自分に合った努力〜      渡辺私塾台町本校塾長 渡辺淑寛

 雨巻きの山々から吹く冬風のなかに、微かな春の息吹が微笑みかけるお正月休み、毎年恒例の楽しみがある。それは、何人かの卒業生が、里帰りかたがた、近況報告をしに来訪してくれることである。1月4日、冬休み最後の来訪者が、驚くような報告をしてくれた。大学在学中に旧司法試験に合格したという報告である。法科大学院(ロースクール)修了者が受験する新司法試験も難関だが(昨年度は7392名受験で2043名合格、3.6倍)、2年早く法曹界に進める旧司法試験は、想像を絶する難しさだと聞いていたので、耳を疑った。(今回の旧司法試験は、15221名受験で92名合格、165.4倍、そのうち現役大学生は僅か25名)来年で終了する旧司法試験は年々難易度を増し、前々回は248名、前回は144名合格で、今回はついに100名を切る超難関の試験であった。更に彼は、恐ろしいことを口にした。1万5千人から千5百人に絞られた短答式試験で、俊英揃いの1万5千人の中で、何と同点1位(10名ほど)だと言うのである。
 彼は、市貝中から真高に進み、現役で東大・文T(法)に現役合格した秀才であったが、決して突出した天才ではなかった。私は、彼と同程度の才に恵まれていても、自分の希望を成就出来なかった多くの若者を知っている。だが彼には、真の能力があった。それは、「自分に合った努力」を見つけ、その努力を持続出来るという真の力である。彼は「塾に残す言葉」で 「ハイレベルな内容であってもわかりやすく説明してくれる塾長には驚かされました」で始まり、「通過点である大学受験を突破してまた一歩自分の目標に近づけるよう頑張ります」(原文のまま)、と書いている。「大学受験」を弁護士への「通過点」と言い切る冷徹な洞察力、手前味噌になるが、真岡市に不気味な塾があり、そこに入れば本物の学力が着くだろうという本能的眼力、この二つの力も、「自分に合った努力」を見つける「真の力」を構成しているに違いない。
 そう言えば、彼と似た波動を持つ子がいた。京都大医学部に現役合格した塾生である。彼も「自分に合った努力」を持続できた子で、二人とも、図らずも私の前で同じ事を言った。「勉強は苦しく有りませんでした。自分に合った努力をするだけですから」と。二人の共通点はまだある。謙虚さと明るさである。後者も「塾に残す言葉」で「 中学1年から高校3年までここ台町本校でお世話になりましたが、塾長の核心をつく授業には、思うにいつも舌を巻いていた気がします」(原文のまま)と書いている。成績優秀者の中には、多少先生をけなす者も少なくないが、二人は極めて謙虚である。謙虚だからこそ、教えたことを海綿のように吸収出来るのである。そして笑う門には福来たるという古の格言通り、二人はいつも優しい微笑を絶やさぬにこやかな少年達であった。
 司法試験合格者の彼に話を戻そう。彼との別れ際に、私は言った、政治家になる弁護士が多い中、本物の人権派の弁護士になってほしいと。彼は微笑を浮かべ否定しなかった。彼ならば、何時の日か、法曹界に名を残す素晴らしい人権派弁護士になるだろう。そして彼らのような謙虚な若者がこの地上に無数に生まれ出でて、何時の日か、この地球が、血球から知球に変わっていくだろう。

人はいつも強い訳ではない。だが強くなければならぬ時もある。それが今だ。
 君達は学べなかった多くの少年少女の代表選手だぞ。君達は今試されているのかも知れないぞ。今の苦渋は、3月、春の風に流せばよい、4月、桜の花に語ればよい。だからこそ今の今、気が遠くなるほど過去問を解きまくれ。君の予感を成就するために。


受験生への檄文
                  渡辺私塾台町本校塾長 渡辺淑寛
入試に臨む下野の国の少年少女に告ぐ。アフリカの大地で飢えで身罷(みまか)る子供達の悲しくも清い眼差しを見たことがあるか。学ぶことも受験も一切捨て、教師の暴力に抗(あらが)って城跡で自ら旅立った少年の想いに、思いを馳せたことはあるか。戦禍で、受験などは言うに及ばず、学ぶことさえ果たせなかった多くの子供達の意志を継ぐ決意は既に出来ているか。
 君達は代表選手だぞ。君達の背には、その人達の無数の願いがそっと乗っているぞ。その願いとは言うまでもなく「進化」だぞ。遥か数千年後、全ての人が数学者で文学者で哲学者で舞踏家で音楽家で、つまりは全ての人が芸術家である社会の実現だぞ。21世紀初頭、極東の地日本では、君達は学ぶことで、受験を通して、ほんの少し進化するのだぞ。
 何をするにも少しの勇気は必要だが、人生の岐路となる入試では、本物の勇気が少し必要だぞ。今勉強がはかどらないことを、誰かのせいにしていないか。成績が伸びないのは、頭が悪いからだと、自分を卑しめてはいないか。断じて違うぞ。そのような者は、受験と真っ直ぐ向き合っていないからだぞ。凍り付くような覚悟と勇気を未だ持ち得ていないからだぞ。
 過去は思い出で、未来は夢に過ぎないから、肝心なのは今の今だから、震える声で、愛する家族の人達に、直立不動で今伝えよ、「私は精一杯やる覚悟が出来ました。真の勇気とは何か、少しだけ解りました。どうぞ見ていて下さい」と。クラスに、不安で押しつぶされそうな友がいたら、躊躇無く伝えよ、「一緒にやれるだけやってみよう。受験と真っ直ぐ向き合おう。少しだけでも勇気と覚悟を共有しよう。そして春、桜咲く春、友情という名のハンカチーフで、お互いの初めての歓喜の涙を、そっと拭(ぬぐ)いあおう」と。
 君達は今試されているのかも知れないよ。君の密かな努力は、誰かがきっと見ているよ。入試への過程も結果も神聖だから、精一杯やれたのなら、如何なる結果にも恥じることはないよ。
 夏、陽をさんさんと浴び、秋、鮮やかな紅葉に染まり、冬、ひっそり雪に埋もれても、春、桜舞う春、緑なす山々は、大地いっぱい萌え上がるのだから、大丈夫、君達も進化するように出来ている。大丈夫、受験という名のこの修練の時、宇宙の秘密を数多く学び、君達は成就するように出来ている。大丈夫、風に舞う木の葉一枚の運命さえ知ると言う天は、努力しようとする者、少しでも他者の為に生きる者に、寸分違(たが)わず微笑みかけるように出来ている。そう、ベストを尽くして、あとは全てを天に任せれば良い。
 さあれ、全ての受験生よ、代表選手として、胸を張り、笑みを浮かべ、真っ直ぐ前を向いて、輝く人類の未来に思いを馳せて、勇気凛々と、自分の出来うる最高の答案を書いて


渡辺私塾開塾の思い出 〜父の追憶と共に〜
                  渡辺私塾台町本校塾長 渡辺淑寛

 父渡辺寛一は、物部中、久下田中、真岡中等で教鞭を執った後、昭和54年、芳賀町立水沼小学校校長として定年退職し、平成2年他界した。現職中脳血栓で何度か倒れ、休職を繰り返しながらも、多くの教職員、ご父兄、生徒達の温かい励まし、ご支援で、定年まで勤めあげた。定年の数年前には、口、手足が不自由になり、我々家族も見かねて、早期退職を勧めたが、頑として聞かなかった。ある時、次のような話を耳にして、家族は早期退職を口にしなくなった。朝礼時、父の挨拶は、何を言っているのかほとんど解らないのだが、その必死さ、生き様、児童達を思う純真な姿に打たれ、泪する教職員、子供達が少なからずいたという話であった。目頭を押さえながらも、私達家族は、父を誇りに思った。
 父が最初に倒れたのは、私が宇都宮大卒後、名古屋大4年の春であった。8年間も大学に通うことを許してくれた父母に、私は計り知れない恩義を強く秘めていた。宇大では有機化学を、名大では美学美術史を学び、絵画の塗料分析の出来る美学生など稀だったので、私のような粗野な人間でも少しは嘱望され、大学に残る予定であったが、父のリハビリの事も有り、私はためらわず、地元での開塾を決心した。それに、大学で父のような教師になることが夢であったが、松下村塾やシーボルトの鳴滝塾のように、全く自由な教育の出来る私塾も悪くはないとその当時から考えていた。実体は学習塾だが、理念は哲学塾であるという自負から、「渡辺学習塾」でなく、「渡辺私塾」と命名したのもその思いからであった。そして、現在も授業の合間に行われている、高1数学クラスの「特殊相対性理論」講義、高2英語クラスの「言語と芸術」講義や、多くの哲学、文学の話の中で、その思いは脈々と息づいている。
 今にして思えば、当塾第1回卒業生である弟も、現在荒町教室塾長として教育にたずさわり、サラリーマンであった兄も、会社の研究室で研鑽し、急逝する直前まで1年余、岩手大学名誉教授として教鞭を執っていた。何と息子3人全員が、足を引きずりながらの父の歩んだ同じ道を、無意識に選んでいたのである。
 開塾35年目に入った渡辺私塾。「自由な教育」の結果として、芳賀郡の進学実績の向上も使命の一つであったが、高等部卒業生だけでも約3000名を数え、そのうち2000名近くが国公立大に進学し、中等部を合わせれば、卒業生も1万人を越えている。使命の何割かは果たしていると、父も優しい笑みで認めてくれるであろう。
 また地元の文化芸術の発展の一助になることも、当塾の目標の一つであるが、文芸賞創設、絵画展開催、いちごてれび高校講座中学講座放送、文芸誌発行、本の出版(計10冊)、渡辺私塾文庫創設などではまだまだ不十分であることは、重々承知しているので、幾つかの密かな計画も持ち合わせている。
 父よ、病魔に冒された後のあなたの悲嘆、苦渋、刻苦は、私達の想像のはるか向こうにあるが、父よ、朝目覚めるたびのあなたの絶望と、その病躯で職を全うした真の勇気からすれば、今の私の努力など取るに足らないと、真顔で諭すように言うだろう。
 それでも本当の事を言ってもいいよね、父よ、願わくば、あの世では、陸上選手として褐色の肌でトラックを走り、イージーライダーの様に単車を走らせた、あの元気で若くて頑強な「お父ちゃん」に、会いたい。



真岡新聞平成22年10月2日号
英語学習の意義

来春で開塾36年を迎える渡辺私塾。台町本校高等部で9月18日に第2回高2英語学力コンテストを実施した。真高生、真女高生、中央女高生計88名が参加し、入賞者は以下の通り。
 第1位、佐藤裕典78点、第2位、吉住航71点、第3位、飯塚成紀61点、第4位、町井健人60点、第5位、北條新之介57点、第5位、足立貴弘57点、第7位林美貴成56点、第8位、上野愛美55点(入賞基準、上位8名)
 渡辺淑寛台町本校塾長の話〜今回は明治大学(文学部)全問題 を出題しました。60分の所を40分で解いてもらいましたので、相当厳しい時間設定ですが、今年の高2生は優秀で、上記のように大健闘でした。
 数年前、英語が苦手な塾生に、「先生、何で英語なんて勉強するんですか」、という愚痴と非難が交錯する質問を受けたことがあった。「入試に出るから」、「就職に有利だから」、「外国の人と話すため」、「海外旅行の時、役立つから」、「情報収集に有利だから」等の、「国際化」まで含めた直接的実用性が一つと、「もう一つの言語を学ぶことによって、日本語を含めた言語能力を高めるため」という人類進化論に根ざした間接的実用性の二つに、ほぼ大別出来るであろう。そのようなことを考えている時、ふと母校名古屋大英文科の老教授の、あるエピソードを思い出した。様々な分野の学者の集まりで、ビールを飲む段になって、「栓抜き」は英語で何というのかね、という意地悪く準備された質問をされ、とっさに答えられず、悪意と軽蔑に満ちた失笑を浴びたという。英国の詩人ウイリアム・ブレイクの権威であった先生は、授業中、私達学生の前で、怒りと悲しみで氷のような涙を浮かべ、絞り出すように言った。「私が震える程悔しかったのは、答えられなかった事ではなく、私の長年に渡る英文学研究が、「栓抜き」にすり替えられてしまったことだ」と。当然日本国内では「栓抜き」は「栓抜き」で良いのであり、「オープナー」とか「コークスクリュー」などと言う必要は全くなく、優れた英文学者をつかまえて、「栓抜き」を英語で言えなかったからと、鬼の首でも取ったかのように侮蔑するのは、実用英語偏重主義の最悪の形態である。
 この様に、英語学習は、自ら低俗な直接的実用性という落とし穴をいつも引きずっている。だから今後、旅をする外国人に英語で道をきかれたら、片言の英単語を並べた後で、「貴方は日本の地を旅しているのですから、日本語を学んだ方が良いですよ。日本人は外国を旅する時、少しは英語を覚えていきますよ。貴方は、日本人の、直接的実用性尊重という大錯覚に甘えているだけですよ」、と一度くらいは言ってみたいと思っている。
 かの老教授のためにも、私見だが、英語学習のもう一つの意義を付言してみたい。日本人の優秀さは既に言い古されているが、私の経験でも事実である。僅か中学高校6年間の英語学習で、日本の若者は、相当高度な英文を辞書無しで読めるようになっている。例えば、センター入試英語で7,8割以上得点出来る高3生なら、マザーテレサの上智大講演録を容易に精読出来るであろう。アインシュタインの「私は信じる」を、ラフカデオハーンの「詩論」を、ヘミングウェイの「老人と海」を原文で読めるだろう。
 そしてここからが重要なのだが、学生時代、シェイクスピア劇を原文で読んだ時、英国と戦争することは個人的には有り得ないと思えた。ヘルマン・ヘッセの「青春は美し」を独語で読んだとき、ドイツ人とは戦えないと思った。何も文学だけに限ったことではない。直近では、韓国ドラマ「チャングムの誓い」を食い入るように観た時、これだけの作品を作る韓国の民と争うことなど到底出来ないと感じた。他民族の文化、風土、伝統、芸術の本質に触れるとき、私達は無意識にでも、その人達への尊敬、畏敬の念を心の奥底に沈潜させるに違いない。他国の言語学習を通して、他国の文化、芸術を真に理解することは、お互いが核武装し合うことに劣らず戦争抑止力になると言ったら言い過ぎであろうか。人類が他国の言語を学ぶということは、私には、人類の進化の必須で重要な一場面に思えてならない。
 授業の度にブレイクの詩を、窓ガラスも震えるように朗々と、天まで届けと朗々と諳んじてくれたU先生、あの時の先生の涙は、私達の涙でもありました。先生の悔しさは私達の悔しさでもありました。ですから私のこの拙文が、先生の住む天まで届け、朗々と。


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