リーフ

 2011年3月の地震で被害に遭われた多くの方々へ心よりお見舞い申し上げます。
また被災地の皆様のご健康と、被災地の一刻も早い復旧を、北関東の地から祈念致します。

今回の震災で犠牲になられた方々への
「三部作第1、鎮魂歌 第2
、海と文明、悲憤を越えて 第3 地鎮歌
をしたためましたのでお読み頂ければ幸いです。

「3部作第1、鎮魂歌〜大震災で旅立った人達へのレクイエム〜」

梅の花が咲く2011年春
3月11日2時46分
大地よ、海よ、地球よ
何故に、人類の存在を否定するかのように、我々を海に浚(さら)うのか。
「海など無ければいいのに」と言った老女の凍り付く悲しみが、君等には届かないのか。
何故に、海岸での我々の些細な営みを一瞬で抹殺するのか。
大地の悠久の営みからすれば、我々人類の営みなど無に等しいと言うのか。
違う、断じて違う。
我々人類は、大地を、地球を守るために、この地上に来たのだぞ。
我々の歩みが遅すぎると言うのか。それは認めよう。
だが待て、あと数世紀待て。
我々人類は必ずや飛躍的に進化し、この血球を知丘に変えるぞ、光り輝く智球に変えるぞ。
だから宇宙よ、孤立し寒さに震える被災者を今すぐ救え。
安否不明の人々を家族のもとに今すぐ帰せ。
だから天に帰った人達よ
水の恐怖を忘れ去り、大地を海を慈愛で許し
残された我等の不屈の努力と刻苦を空から見ていてほしい。
存在とは進化だから。

2011年春、強い風の中、梅の花が散る。
春だというのに、北の街では雪が降る。

  〜2011,3,16,南都麗〜(真岡新聞3月25日号に掲載)


自然と人類、大地と文明の観点から犠牲者の方々に追悼の意を込め
「3部作第2、海と文明、悲憤を越えて〜追悼文にかえて〜」

 
メルビルの「白鯨」やヘミングウェイの「老人と海」では、海は人間との戦いの場であり、沖縄の岸壁から身を投げた婦女子にとって海は惨劇の地であり、深沢七郎の「南京小僧」では、海は、祖父と孫・政次が入水する悲しみの場でありました。また海水浴に興じる家族にとっては家族愛をはぐくむ憩いの場であり、漁師達にとっては豊穣の海だったのでしょう。
 何れにしても有史以来、人間とって、海は、協調と離反を繰り返しながらも悠久の営みの場であり、そこには深くて強い暗黙の信頼があったに違いないのです。もしそのような信頼関係が無かったとしたら、我ら人類は、幾多の海難を乗り越え新大陸発見の大航海を、どうして成就できたでしょうか。しかし今回の大震災は、核兵器開発以降、科学技術を過信した人間の横暴は認めるにしても、何という理不尽な仕打ちなのでしょう。自然の標的は実は世界最高技術の日本原発なのかと邪推したくなるほどの、何という業腹で一方的な裏切りでしょう。一瞬にして、海は、悪魔でさえ目を覆い、地獄の鬼さえ嘔吐する無慈悲で残忍な殺戮と虐殺と凌辱の場になってしまいました。
 我々人類は、自然の猛威には為す術がないと虚無思想に逃げるのではなく、自然を守りながらも、海に対して、大地に対して、ある種の困難な長きに渡る戦いを挑まなければなりません。そしてその戦いの勝利の一形式は、地震や津波の「悪しきエネルギー」を、人類にも自然にも有益な「善なるエネルギー」に完膚無きまで大転換する事である、と強く確信します。
 我々人類は科学の分野でもまだまだ未開であり、永遠なる科学の進歩の道程では、まだ第一歩を踏み出したにすぎないのは自明です。ですから人類は、人類自らを、あるいは自然自体を発展進化させるために、悲憤を飲み込んで、科学を、自然を、宇宙を、謙虚に徹底的に忍耐強く探究し続けなければなりません。
 ここで、多くの少年少女に尊大に語りかけることを許して頂けるでしょうか。今回の震災で他界された数多(あまた)の人達のためにも、真っ直ぐ前を向いて、真摯に誠実に、他者を信じ手を携えて屈強に学び続けよと。人類は、この様な悲しくも尊い犠牲を乗り越えて進化してきたのだと。
 そして数多くの犠牲者の方々に、不遜にも語りかけることをお許し願えるでしょうか。永劫の人類史のなかで、あなた方の帰天は、何にも代え難い尊い礎(いしずえ)であると。科学技術を過信した人間の傲慢さが歪めねじ曲げてしまった人間と自然の異様な関係は、あなた方の尊い犠牲によって、確かに正されると。残された我々は、あなた方の悲しみを幾千回思い起こし、世界中の支援を糧に、地震や津波の凶悪なエネルギーを、いつの日か善なるエネルギーに換えると。そしてもし来世が有るなら、願わくば、慈愛を持って海を許し、海と文明が、自然と人間が完全調和した世界で、海辺に佇み、光り輝く海原を愛(め)でてほしいと。海も人間も、動植物,鉱物,大気いや存在する全ての事物は、悲憤を越えて共生調和し螺旋状に進化するよう、天によって創られているのですから。そう、存在とは進化ですから。


〜2011,3,20,南都麗、真岡新聞4月1日号に掲載〜





「3部作第3 地鎮歌〜大地の女神ガイアに告ぐ〜」

地上では、桜桃の実が薄紅色に頬を染めているというのに、ガイア、何故に、余震という名の悪戯で、未だ、大地を揺るがすのか。
       それとも、ガイア、憤怒と悲しみで、ただ震えているだけだと言うのか。未だ戦争を遂行し、暴力と差別が渦巻くこの大地を憂い、悲憤の余り震えていると言うのか。
  地の歴史は血、史は死、愛は哀であったことは認めよう。我々人類が未だ未開であること、人類史がまだまだ前夜であることは認めよう。
       だが聞いてくれ、ガイア。地球が生まれて数十億年、人類誕生数百万年、人類の文明など高々数万年、地球史を1日に例えれば、文明史など1秒に満たないのだぞ。
      だから万年とは言わない、千年待て、ガイア。我々は、戦争も差別も、貨幣すら昇華し、鳥が空の国境をを越えていくように、魚が海の国境を越えていくように、国家さえ止揚するかも知れないぞ。だから、1秒待ったのだから、あと0・1秒、人類の進化を待て、輝く人類の未来を待て、ガイア。汝も知っていよう、存在とは進化だと。
今1度言う、ガイア、少女が肩を震わせて泣くように、もう泣くな。
大地の女神ガイアに告ぐ、もう震えるように泣くな。

〜2011,5,17,南都麗 真岡新聞5月27日号に掲載〜